MY SOUP DAYS スープボウル1杯分のちいさな小説 文・大野政仁

Vol.4 ふたりの温度差

身震いがした。もう三月過ぎだというのに全然暖かくならない。桜の開花も今年はかなり遅くなるという。バイト先のいつもと同じ帰り道を歩きながら美智子は、それだけが理由ではないと考えていた。 あれから一年。私たちは、どうしてしまったのだろう。あの大震災からこれからを生き延びていくために、二人で東京にむかってきたその日から。 亨とは、福島で出会った。まだ美智子が小学三年生のことだった。いわゆる幼なじみである。東京から転校してきた亨は、たちまちクラスのアイドル的存在となった。あまり無駄なことを話さないクールな姿でありながら、時に大きな夢を語る。思いだしながら美智子は「今と同じだ。何も変っていない」と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。 自宅の玄関の前に着くと美智子は強張りながらドアを開けた。いつもの光景だ。何もせずにベッドに横たわる影。希望も夢もその部屋から何も感じない。 「ただいま。今日は見つかった?」 返事を期待せずに訊く。もちろん、返事はない。今どき、某消費者金融会社の無人契約機だって何らかの返事があるだろう。 「はい、スープ。店から少し分けてもらっちゃった。まだ少し温かいよ。仕事なんてすぐ見つかるよ。まだ運が来てない…」 その瞬間、亨の足が、テーブルの上にあるスープを蹴り上げた。 「お前は、何もわかってない。スープなんか…。スープなんか、オレの前に見せるな。お前は、本当に…」 亨は、ようやくいつもの返事をした。 美智子は知っていた。彼がスープを嫌い、いや本当は大好きなことを。思い入れが人とは数倍も違うことも。 あれは、震災があって一週間たった頃だったと思う。避難所の炊き出しをもらおうと待っている途中に訊いた言葉だ。 「あ~、やっぱりこんな時は、豚汁だよな。スープとかじゃないんだな」 「なぜ? 豚汁だと思うの?」 「だって、スープは、俺にとって幸せな家族の象徴なんだ。仲の良い家族の真ん中にスープがある。みんなが好き勝手やっていても、スープが出てくるだけで、温かい気持ちになって黙ってしまう。そんな…」 亨は、そこまで言って黙ってしまった。その表情は、自分にはもう手に入らないものだと静かに語っていた。そして悲惨なこの場において、まだ温かい心を無くしていないことを確認した。美智子がバイト先をスープ屋さんに決めたのも、この時の思いが深く残っていたからだった。 人生は、一瞬にしてすべてが壊れる。大切な人、大切なものを一瞬で無くす。美智子は、この震災でそれを頭でなく身体で体験した。その時の亨の眼は、それさえも乗り越えているようだった。 スープの残骸を片づけながら美智子は、あの時の亨を取り戻して欲しいと願っていた。ふたりの温度を同じにしたかった。 亨の気持ちは、よくわかる。あれから一年、仕事が決まらず実質生活を支えているのは美智子だ。そのままヒモになれる性格なら良かったが、残念なことに彼にはその素質はなかった。働きたいけど、働けない。働きたいけど、上手くいかないもどかしさ。自分が自分で無くなる恐さ。そんな自分には、スープを口にする資格はないと思っているのだろう。 亨にスープを食べてもらうことができたら、またあの頃に戻れる。それだけを思って美智子は毎日、店長に頭を下げ特別にスープを分けてもらってきていたのだ。 ガーデンベジタブル、シアトル・クラムチャウダー…。毎日違ったスープを届けた。でも、頑なな無職の男は、動かない。 しばらくしたある日の帰り道、美智子は、ジャガイモの大安売りを眼にした。節約するためにひと袋買おうとすると、ある言葉を思いだした。 「そんな…」の続きだった。 「ゴロゴロしたイモがたっぷり入っててさ」 美智子は、今日で最後にしようと決めた。スープも、亨との生活も。これでダメならすべてを捨てようと。 美智子は、前日、店の店長に、結婚を前提に付き合ってくれと頼まれた。丁重にお断りしたが、その事も今回の気持ちに影響が無かったら嘘になる。しかし、それはきっかけにすぎない。 足早く、家に向かう。亨は、今日は面接に出かけているから遅くなるはずだ。ドアを開けると決して立派とは言えないキッチンで、ジャガイモの皮をぎこちない手つきで剥き、もらってきたローステッド・トマトチャウダーと一緒に煮込んだ。 どれくらいたっただろう。うたた寝をしていたらしい。眼を開けると、隣でスープを食べている亨の姿があった。そして、傷ついた美智子の手を握り、一言つぶやいた。 「やっと、スープを口にできる生活に戻れる」と。

Vol.4 ふたりの温度差

ローステッド・
トマトチャウダー

ローステッド・トマトチャウダー

トマトの深い味わいを、コクのあるチーズでまろやかに。
Back Number
  • Vol.1 Juli@ボストン・クラムチャウダー
  • Vol.2 秘密@パンプキンパーティー
  • Vol.3 冬の星座
  • Vol.4 ふたりの温度差
  • Vol.5 春の夜、高架鉄道の走る町で
  • Vol.6 雨の音はどんな音
  • Vol.7 ターコイズブルー
  • Vol.8 再試合
  • Vol.9 クリスマスの片隅で
  • Vol.10 タイムゴーズバイ
  • Vol.11 飲みすぎた俺たちは夜明け近く春の街を歩く
  • Vol.12 蝉の婚活