MY SOUP DAYS スープボウル1杯分のちいさな小説

Vol.8 再試合

 甲高い声に混じって、時折乾いた音がする。打球音だ。ひとつの打球を追いかける少年達の姿を見ながら、敬は土手に腰を落した。フリーのデザイナーとして自宅で仕事をしている敬は運動不足もあって、最近毎朝、川沿いの土手を散歩している。毎朝決まった時間に土手の下の小さなグラウンドで少年野球が行われていることを知ったのは、二、三日前のことだった。グラウンドと言っても外野付近は枯れ果てた芝生が張ってありバックスタンドやベンチは無く、バックネットが申し訳程度にある質素なものだった。  懐かしい。敬は野球をする少年たちを眺めながら思った。あの日も昨日までの暑さが嘘のように、頬を伝う風がひんやりとしていた。そう、野球を諦めた日だ。  小学、中学、高校と野球部だった敬は、一生野球に関わっていくんだと決めていた。それが、普通の学生が楽しんでいることのすべてを捨て、苦しいだけの学生野球を続けていく指標だったかも知れない。しかし、その考えを軽く勘違いだと気づかせてくれたのは、後にプロ野球で活躍する大物スラッガーだった。高校二年生、夏の甲子園大会地区予選のことだった。敬は二年生ながらエースだった。三回戦を順当に勝ち抜き準々決勝で、そのスラッガーの高校と戦った。結果は、十五対一のコールド。スラッガーには三本のホームランを打たれた。完敗である。敬は不思議と悔しくはなく、こういうやつがプロに行くんだろうと悟っていた。そして秋になり野球を辞めた。  野球は努力したものが上手くなれるわけじゃない。才能があってさらに努力を続けられるものが生き残るのだ。小学生で諦めるもの。中学生で諦めるもの。高校生で諦めるもの。大学生で諦めるもの。社会人で諦めるもの。プロの二軍で諦めるもの。プロ野球のレギュラーとして生き残れるのはごくわずかしかいない。ただ、と敬は思う。あの時、諦めなかったらどこまで行けただろうと。  それからの敬の人生は惰性で生きてきたと言っても過言ではない。なんとなくデザイン会社に就職し、なんとなく仕事をこなし、なんとなくフリーになり、なんとなく女の子と付き合い、なんとなく生きてきた。野球をやっていた時の輝いた瞬間を味わったことは一度もなかった。人は諦めるなと簡単に言う。ただ目的を失った時、人はかつての自分の意志を簡単に崩壊できると敬は思っている。  そう自分を卑下しながら少年たちを眺めていると、ある選手が水筒の中から湯気の出ているものを飲んでいる姿に気づいた。   味噌汁?スープ?スープだな、あれは。ああ、そういえば、諦めるなと自分に一番言っていたのは母だった。そして、いつもスープを出してくれた。粉末の簡単なものだったけど。なぜ、スープだったんだろう?  いやいや、と首を振りながら敬は立ち上がった。どうでもいいか。そんなこと。  「野球好きなんですか」  急な声にびっくりして振り向くと、そこには土手に不釣り合いなリクルートスーツを着た女の子が立っていた。  「ええ、まあ。暇つぶしですよ。暇つぶし」  「でも真剣に観てますよね。その真剣さが私には足りないかも」  今日も敬は、少年野球を観ていた。端から見たらなんて暇な人なんだろうとしか思えないはずだ。  「私、就職活動中なんです。あ、見ればわかるか。いろんな会社を受けて、落ちて、諦めて、諦めて、自分を追い込んで。なんかあの子達の野球観ていたら、まだひたむきじゃないかもって。真剣さがたりないかもって思っちゃったんです」  「諦めるしかできないこともある」  「え? 」  「いや、そう生きていくのもありじゃないかと」  「私思うんです。野球ってある意味個人競技で、ある意味団体競技ですよね。ひとつの球をみんなで追いかけて。でも投げる人、打つ人、守る人、それぞれ個々で活躍する。それって素敵だなと思うんです。独りで活躍して独りで喜ぶってなんか悲しいかな、と」  確かにそうかも知れない。野球のそんなところが好きだと敬は思った。  「だから諦めちゃいけないと思うんです。諦めるとみんなで喜べない。あ、初対面の人に失礼ですよね。私、狩野優子といいます」  その日から彼女は息抜きが出来るからと、毎朝、敬の横で少年野球を観戦するようになった。就職活動は続けているらしい。敬は野球を諦めたこと。今までなんとなく生きてきたことを冗談ぽく語った。  「今の私と同じ。目的が見えないというのかな」  優子は、スポーツ関係の仕事を求めていたらしい。しかし、このご時世なかなか決まらずあせっているという。  「あ、お腹空きません。私のとっておきの元気になる方法教えますよ」  敬は優子に手を引っ張られながら、商店街のほうに歩き出した。しばらく行くとスープ屋に着いた。  「ここです! 」  店内は賑わっていた。二人はチーズとマッシュルームの入ったスープを注文した。敬は、よくわからないというような顔をして訊いた。  「なぜ、スープなの?」  「だって、スープって、いろんな美味しい具が混ざってひとつになっている。なんか野球みたいですよね。しかもこの寒くなる季節、温かくて、また頑張ろうと思うじゃないですか」  敬は、こんなことを恥ずかしくもなく堂々と言える優子に好感をもった。と、同時に母と同じことをする彼女に深い縁を感じた。  次の日の朝も優子は現れた。  「おはようございます」  ほら、と敬はグローブを投げ出した。  「な、なんですか?」  「キャッチボールしようよ」   「私、運動音痴ですよ」  「キャッチボールは、運動神経でするんじゃない。ここだよ」と、敬は胸を叩いて、白球を投げた。  この娘とともに再び新たな人生の試合に臨むのも悪くないんじゃないかと心に決めて。

Vol.8 再試合

シアトル・
マッシュルームビスク

シアトル・マッシュルームビスク

マッシュルームとチーズを贅沢に使った味わい深いスープ。
Back Number
  • Vol.1 Juli@ボストン・クラムチャウダー
  • Vol.2 秘密@パンプキンパーティー
  • Vol.3 冬の星座
  • Vol.4 ふたりの温度差
  • Vol.5 春の夜、高架鉄道の走る町で
  • Vol.6 雨の音はどんな音
  • Vol.7 ターコイズブルー
  • Vol.8 再試合
  • Vol.9 クリスマスの片隅で
  • Vol.10 タイムゴーズバイ
  • Vol.11 飲みすぎた俺たちは夜明け近く春の街を歩く
  • Vol.12 蝉の婚活