MY SOUP DAYS スープボウル1杯分のちいさな小説 文・土井克彦

Vol.5 春の夜、高架鉄道の走る町で

僕らが育った町は東京湾に近い23区のはずれにあり、 高架鉄道が町の真ん中を分断するように走っている。 南風が吹く頃になると、 海と河口の匂いが入り混じった独特の臭気が町全体を覆い、僕らは毎年、 その匂いで新しい季節が来たことを知るのだった。 町はずれの国道沿いにはボーリング場があったが、90年代の半ばにつぶれてしまった。 小さな工場が密集した町で、駅の西側に バラックのような建物が寄り集まった酔いどれ小路と呼ばれる飲み屋街があり、 昔は工場の労働者たちでずいぶんにぎわっていたらしい。 この酔いどれ小路と高架下にびっしりと並んだ飲食店街が、 町の中で唯一にぎやかな場所だった。 はじめて高架下の迷路に迷い込んだのは会社に入って数年たった頃だった。 4月の暖かな雨の降る晩で、僕は傘を持っていなかった。 駅を降り、雨の中をコンビニめざして走っているとき、 高架下に並ぶ飲食店と飲食店の隙間に狭い上り階段を見つけた。 そんな場所に階段があることを、それまで僕は知らなかった。 雨宿りしていこうと階段を上がっていくとトンネルのような通路がまっすぐ伸びていて、 そこからさらに幾度か角を曲がっていった通路の奥に、 赤いランプにぼうっと照らしだされたドアがあった。 ドアの横に白い小さな看板があり、 ウイスキーの入ったロックグラスの絵が描かれていたが、店名は出ていなかった。 ギイィィッときしむドアを開けて中に入ると、 数席分のカウンターがあるだけの、天井の低いバーだった。 窓はなく、全体が古い枕木のようなくすんだ木の色をしていた。 外は雨かい、と、白髪を短く刈り込んだ初老の店主が聞いた。 それからロックグラスに氷とウィスキーを注いで僕の前に置いた。 そういうときはウィスキーに限るよ。店主はそう言った。 そういうときというのは 雨の日には、ということなのか、それとも海と河口の匂いが漂ってきたときなのか、 転職するかどうか迷っているときなのか、 取引先の受付で知り合ったいまの彼女とぎくしゃくしだしているときなのか、 よくわからなかったが、すべて当てはまっていたから、 いずれにしてもこういうときはウィスキーに限るようだった。  ウィスキーを2杯か3杯飲んだ頃、 なにか食べるかい、と聞きながら店主がメニューを手渡した。 開いてみると 左側のページに「ウィスキー」、右側のページに「必要なスープ」と 書かれているだけだった。 それはいまあんたに必要なものがたっぷり入ったスープだよ。 ビタミンとか決断力とかそういうものが入っている。 必要なものは旨いよ。そう言いながら店主は笑った。 残業で食べそびれていたから、ともかく食べ物は必要だった。 それは、何種類もの野菜を使った、見るからにビタミンが体に満ちてきそうなスープだった。 雨で冷たくなった体が温まっていく。 たしかに必要なのはこんな食べ物だった。そして、それはとてつもなく旨かった。 そうやって僕は何度かこの奇妙なバーに通った。 スープの中身は、鉄分と勇気だとか、ミネラルと寛容さだとか、 ポリフェノールと自信だとか、その都度いろいろ変わった。 普段はあの階段にまったく気づかないのだが、ときどき不意に目の前にあることに気づく。 そういう時はたいてい、なにかが自分の中で欠乏しているのだ。 今年に入って駅周辺の再開発が始まり、高架下の飲食店街は ある日いっせいに取り払われてしまった。 酔いどれ小路の跡地では高層マンションの建設が始まっている。 あれから僕は転職を決意し、結婚し、娘が生まれ、バーから足が遠のいていた。 あのバーの痕跡を示すものはなにひとつ残っていない。 この町でずっと暮らしてきた古い友だちに聞いてみても、 あのバーのことを知っているものは1人もいなかった。 僕自身もきょうまですっかり忘れていた。 きょう、海と河口の匂いが町を覆い、記憶の鍵をこじ開けたのだ。 必要なスープは僕にはもう必要なくなったのかもしれない。 しかし、あの初老の店主はどこかでひっそりと店を出しているだろう。 そして必要な人たちに必要なものをひっそりと提供しているはずだ。 誰にだって、スープが必要なときがあるのだから。

Vol.5 春の夜、高架鉄道の走る町で

ファーマーズ・
マーケットベジタブル

ガーデンベジタブル

ベースから仕上げまで、野菜だけを使った、彩り豊かな自然派スープ。
Back Number
  • Vol.1 Juli@ボストン・クラムチャウダー
  • Vol.2 秘密@パンプキンパーティー
  • Vol.3 冬の星座
  • Vol.4 ふたりの温度差
  • Vol.5 春の夜、高架鉄道の走る町で
  • Vol.6 雨の音はどんな音
  • Vol.7 ターコイズブルー
  • Vol.8 再試合
  • Vol.9 クリスマスの片隅で
  • Vol.10 タイムゴーズバイ
  • Vol.11 飲みすぎた俺たちは夜明け近く春の街を歩く
  • Vol.12 蝉の婚活